倉敷RCの橋本です。
現在第3Zone担当の財団Regional Coordinatorをつとめさせて頂いています。
今日は、「Polio根絶への歩み」という事で、過去、現在、未来についてお話したい、と思います。
皆様御存知の様に、Rは1985年、Polio撲滅運動を始め、R創立100周年に当る2005年のChicago世界大会で、根絶宣言を出すべく、全会員に呼びかけました。しかし残念ながら、2005年のPolio根絶宣言は、出来ませんでした。
その後も、歴代RI会長は、年度活動目標の中で、常にPolioの撲滅を第1に掲げて、財団も活発に活動を続けています。
今財団は、先程お話しがありました様に、「2億$Challenge」に向けて、募金活動を続けていますが、会員の中には「又か」とか、「本当に絶滅出来るのか」といった声がある事も事実であります。
その様な厳しい声に対して、出来るとか、出来ないとか、或は又いつ迄に根絶出来るとかいう事は私には言えませんし、判りません。
今日は、今迄のRの歩みを振り返り、それによって、現況を把握し、WHOの見解など聞きながら、そして永年の夢の実現につなげたい、と考えます。
今から丁度10年前の2000年10月30日全国の新聞は、一面或は社会面の違いはあっても、挙って「日本を含む西太平洋地域で、Polio根絶のWHO宣言がなされた」という事を大きく報じていました。
1985年以来、Polio Plus或はPolio Plus Partners Programを通じて、係わりをもって来たRtnの多くが、何らかの感懐をもたれた事でありましょう。
私はPolio撲滅計画が発表され、早速にPolio使途指定のPaul Harris Fellowとなり、1997年のGN時代、そしてPETS、地区協、地区大会、公式訪問などの行事を通じて、機会ある毎に地区会員にPolio
Plusへの参加をお願いして来ました。
そして2000年10月29日の国立京都国際会議場で開かれた、所謂京都会議に出席、大きな感激を味わった1人でありました。
新聞紙上にこそRの名前は挙がっていませんでしたが、当日演壇に立たれた殆んど全ての人の口から、RI及びRI2650地区に対し、協力への深い感謝の言葉が述べられたのであります。
会議は日本政府が主催し、常陸宮、同妃殿下御臨席の下、WHO関係者の他、関係各国の厚生大臣、医療関係者をはじめ、Rtnも含めて千数百名が参加したこの会議、Rに身を置く者として、Polio撲滅に多少共関心を払った者として、言い知れぬ喜びを感じた事を、今も覚えています。
あのSmall Pox天然痘が、地球上から姿を消したのが1980年、Edward Jennerが牛痘種痘法を発明したのが1796年ですから、184年を経て人類が初めてVirusに克った、画期的な成果でありました。
そして今、Rが目指すPolio撲滅は、天然痘根絶に次ぐ、壮大なProjectであります。
1979年、PhilippinesでPolioの大流行があり、東京麹町RCはR財団同額補助金を使って、Polio Vaccine購入を含むPolio撲滅運動を展開、支援は近隣RCから地区を巻き込んだ運動へと裾野を広げてゆきました。R財団はこの時75万$を支援に使い、やがてRI挙げてのProjectへと、進展をみたのであります。
麹町RCは、このProjectで後(ノチ)に2人の会員を失なう、という貴い犠牲を出す事になるのですが、1985年、RIは2005年の創立100周年の世界大会で、Polio根絶宣言を出すべく、Polio撲滅運動の開始を決議したのであります。
WHOも、1988年の総会でPolio根絶を天然痘の次ぐ次なる目標とする事を決議、CDC、UNICEFも加わり、第2のVirus追放運動が始まったのであります。
WHOは地球を5つの区域に分けて運動を進め、1994年には南北アメリカ大陸で絶滅宣言が出されました。
つづいて世界人口の1/4が住む西太平洋地域が2000年に、2002年にはヨーロッパでも絶滅宣言が出されたのであります。
今1985年運動が始まった時の感染国125ヶ国は4ヶ国に減り、年間35万人と推計されていた患者発生は、1,000人以下に減少している事は、皆様御存知の通りであります。
ただ4ヶ国に減ったといっても、むしろこれは、この4ヶ国は「年間の患者発生が零になった事のない国」というべきで1度零になった国でも、いつも零が続いているわけではありません。
この点は又後でお話するとしまして、先づ日本に於けるPolioの歴史について、お話をしておきたい、と思います。
世界では古代Egypt時代の壁画にPolioの後遺症を負った、と思われる片足が萎えた男性の彫像が残されていますが、日本での歴史は浅く、1910年(明治43年)に初めて文献に現れました。奇しくも今年100周年です。
大正時代に入ってからも、小さな流行が繰り返された様ですが、それが死に至ることもある流行病(ハヤリヤマイ)という認識がなされたのは、昭和13~15年の頃といわれています。
1947年、漸く届出伝染病に指定され、以後正確な患者数が把握される様になりました。
1949年には、4,233人の患者が出た、と記録されています。
1952年、Americaでは58,000人の患者が出て、内3,100人が死亡する、という大事件になりました。
翌1953年には、ソーク博士による不活化Vaccineが開発されましたが、これはVirusを熱やホルマリンで死滅させ、菌体の殻を注射してこれを抗原として抗体が生産される、即ち免疫が付与される、というものであります。
しかし注射である為、接種には医師の手が要るなど、煩雑さがありました。
又初期の段階では、不完全なホルマリン処理によって、病原性をもったままの菌体が注射され、260人がPolioに感染する、という不幸な出来事もありました。
続く1956年には、America CincinnatiRCのセービン博士によって、弱毒化された経口生Vaccineが開発されました。
注射と異なって口腔内に2滴垂らすだけ、という手軽さで、Polio防疫上の大きな福音となりました。
しかし問題もあります。
弱毒化されたとはいえ、病原体は生きたまま、生体内に取り込まれ、腸管内で増殖。これによって免疫が得られるという事ですが、稀にPolio Vaccineが強毒性に変化し、Polioを発症する事があるのです。
440万人に1人の割り合いとも言われ、極めて低い確率ではありますが、たまたまこの不幸をひき当てた患者にとっては、一生ハンデを背負うことになるのですから大変です。
又、腸管内で増殖したVirusは次に体外に排出され、母親或は周囲の人の口に取り込まれ、Vaccine由来の流行を生じる事があります。又下水道が整備されて居ない所では、河川を汚染する事も多いでしょう。
これらの事は、生Vaccineを使っている以上避け難い所であり、WHOはPolio根絶の目途が立てば、経口生Vaccineを止め、不活化Vaccine即ち注射に切り替える、としています。
Americaでは2000年から不活化Vaccineのみの接種(注射)に切りかえられましたが、我が国でも、いづれ不活化Vaccineだけの時代が来る、と予測されています。
1960年(昭35)北海道を中心に、5,606人の患者が出て、母親達を恐怖に落し入れました。この流行は翌年になっても衰えを見せず、時の厚生大臣古井喜実氏は、政治生命をかけて未承認の経口生Vaccineを緊急輸入し、7月一杯かけて全国の乳幼児にVaccine接種をしました。その効果は目ざましく、8月から9月にかけて患者発生は激減し、この年の患者数は、2,463人と、前年の半分以下に止まりました。
翌1962年には63人と更なる減少を見、1980年、Ⅰ型で1人の患者が出たのを最後に、日本ではPolioは絶滅に至ったのであります。
京都会議で、当時西太平洋地域WHOの尾身博士は、「今日(コンニチ)のこの輝かしい勝利は、Polio撲滅にかけるPartnerの支援があってこそ得られたもので、国際Rはこの活動の先駆者となって来ました。そのEnergyと専心は、我々に大きな力を与えてくれました」と述べて居られます。
Volunteer達は、中国、ラオス、ミャンマー、カンボジア等、紛争や政治的制約で入国困難な国があったにも拘わらず、実際にRtnが現地に赴き、活動出来たのは非営利奉仕団体としてのRの立場が、政治的でなかったからに他なりません。
又Vaccine投与の為の現場の活動運営費は、不可欠且重要な要素でありながら、「物」の支援でない為「目立たない」との理由で、各国政府機関からの支援が得にくく、ここにRのPolio
Plus Partners Programの存在意義があり、一方Volunteerの人達は殆んどが自費参加で、正にService above
selfであります。
先にも一寸ふれましたが、今尚野生株によるPolio発生が続く国は、India、Pakistan、Afghanistan、そしてNigeriaの4ヶ国とされていますが、夫々の国で“0”にならない理由が違います。
Indiaでは、南の方では既にかなり以前から、Polio freeとなって居り、残るはUttar Pradesh州、Bihar州で、人口密度が高く劣悪な衛生状態にあります。
地形的に峻嶮で、現場に到達する事が困難などの状況もあるといわれます。
Nigeriaでは、宗教的理由による未接種集団もありましたが、政権の移動と、宗教関係者の理解度が進み、今尚残る地域は、北の方の地域に限られて来ました。
Pakistan、Afghanistanは御存知の様に正に紛争地域であり、嶮しい山岳地帯での接種活動は困難を極めていますが、ここでも紛争当事者双方の協力が得られる様になって来ています。
しかしこうした地域で、Polio撲滅に時間がかかっている間に、一度はPolio freeになった地域で問題が生じています。
2005年3月、Indonesia Jakarta近郊でPolio患者が出ました。10年来発生のなかった国でした。検査の結果菌はNigeria株で、Sudanからの帰国者が持ち帰ったものと判りましたが、帰国者は健康保菌者でありました。
Polioの場合、患者1人いれば10人もの健康保菌者がいる、といわれ、彼等は自由に歩き廻り、菌を撒き散らしているのです。Polio根絶のむづかしさは、実にこの健康保菌者の存在にある、とも言われます。
話がそれましたが、5月に入ると患者は50名を超し、この時点でVaccineの緊急投与が必要な子供は、600万人といわれました。更に流行は全国に及び、結局全国の幼児2,400万人にVaccineを投与、翌2006年に入って漸く終熄、患者は305人に上(ノボ)りました。
又、2006年5月、Namibiaで39歳の農夫がPolioを発症、Namibiaでは20年来内戦をくり返し、1995年になってやっとPolio
Vaccineの投与が始まった、という事で、成人はVaccine接種を受けて居らず、患者160人中90名が大人であった、という特異な例でした。最終的には、200万人の国民全てがVaccine投与の対象となりました。
これらの例にもみられる様に、もし今手を抜く様な事があれば、25年に亘る今迄の努力が水泡に帰する事になるのです。
2005年のR100周年で根絶宣言が出来なかったRIは、「約束を守ろう、Polioをなくそう」と改めて会員に呼びかけました。
くり返しますが1985年、RはPolio撲滅を世界に宣言、大規模な募金活動を始めました。
1986年7月から始まったPolio Plus募金、先づVaccineの購入費を集める事から始めました。
当時のPolio発生国の子供達、向う5年間に生まれて来る子供達も入れて1億人に投与するVaccine代 1億2千万$、当時の為替レートで200億円。日本はその20%、40億円を負担する事になりました。負担が重すぎる、という声もありましたが、1991年までに、実に47億円を集めるという成果を上げ、元気な日本のRでした。
1988年からは、WHO、CDCなども加わりましたが、活動を始めてみるとサーベイランスの確立、全国一斉投与の為の幼児及び支援者の社会動員、Vaccine保存用冷蔵庫の購入等、多くの費用がかかり、1995年、RIは新たにPolio Plus Partners Programを発足させました。
撲滅宣言を出す予定の2005年を前に、2002年の段階でWHO試算で、4億$の資金不足が判り、Rには8,000万$の募金が要請されました。前回同様、日本のRにはその20%、1,600万$の拠出が求められましたが、3年間で1,517万$に止まり、10年前の力はありませんでした。この約束は、今も果たされていません。しかし世界では8,000万$の目標額に対して、1億2千万$、実に1.5倍の成果を上げたのであります。
今回の2億$Challenge寄付は、Campaignとして3回目で、3度目の正直、今度こそこのChallenge寄付が、Polio根絶に結びつく事を願わずには居れません。
さて、Polio患者の現在の発生状況は、といいますと、お手元にお配りしたPolio資料Ⅰを御覧下さい。
2000年~2009年までの患者数が、国別に出ています。
この10年間の推移をみますと、印度では2000年265名であったものが、2002年には最高1,600名を記録して、昨年は741名です。
Nigeriaでは2000年28件であったものが、2006年1,122件となり、昨年は388件となっています。
Pakistanでは、2000年1,997件であったものが、漸減.0036して昨年暮89件。
Afghanistanでは、2000年27名であったものが1桁に落ちた年もありました。
Somaliaでは、2000年46名が2004年0になり、翌2005年185、2008年には、又0に戻っています。
先程お話しましたIndonesiaとYemenをみて下さい。2005年~06年にかけて、夫々305名、479名の患者を出しましたが、2007年からは又“0”に戻っています。
この様に見て参りますと、一度“0”になった国は、例え感染が起こっても、素早く0に戻る術をもって居り、Polioの撲滅は国と住民の確固とした意識、知識と、それを扶ける防疫関係者の適切な活動があれば、決して不可能ではない事が判ります。
これらの例から得られた教訓は、国民の抗体保有率、即ち免疫率を高くし、かつ新生児もカバーして、高い免疫率を保つ事が必要という事で、“0”が続く国でもVaccine投与が続けられる所以です。WHO西太平洋事務局管内に例をとりますと、今もラオス、クック諸島近辺に免疫保有率50%以下の地域が存在しています。
私が初めてVaccine投与に参加した2005年のPapua Newguineaは当時30%でしたが、今は50~70%地区に昇格。2006年のLeyte、2007年のTonga王国も、今や50%~70%地区になって居り、70%以上になると大きな流行は殆んど生じないといわれます。
今一つ、根絶を実現する要素としてVaccineの効力の問題があります。
Polio Vaccineには、3つの異なったTypeがありますが、この中TypeⅡは、既に1999年以来根絶したものと考えられています。
従来のVaccineは、この3つの夫々のTypeに効くものを混ぜ合わせたものでしたが、3種混合した事で、1×3が3にならず、効力が減殺されているのではないか、と考えられる様になりました。
そして今は、TypeⅠとⅢに対する所謂2価Vaccineが開発され、地域の流行のTypeにあったVaccineの投与で、確実に制圧できる事が判って来ました。
2009年と2010年の同じ期を較べると、患者数は確実に減り、格段の効果があった事が確認されています。
生Vaccineを不活化Vaccineに変えると、撲滅はいよいよホーム・ストレッチにかかって来ます。
野生株Polioが終熄し、Vaccine由来のPolioもなくなれば、そこで全Rtnは勿論、世界の人々の夢が叶うことになります。
未来を正確に予言する事は困難ですが、WHOの資料から読み解けば、10年とはかからない数年以内に、根絶可能としている様であります。
今更私達は鉄の肺に戻ることは出来ません。
25年前に見た夢が、正夢になる事を願いながら、私の話を終ります。
御静聴有り難うございました。